交換日記(1)

 

橋本輝幸さん 企画 #交換日記の多発 1 に 。

 


 

 麦原です。

 日記の中身を書いてからここに戻りました。名乗りとそのあとをどうつないだらいいものか、表紙的な接続をどうしたらいいか、しばらく迷いました。よくわからなくなったので、次の段落に入るところまで、適当な補完をしていただけると幸いです。〜〜〜。

 自己紹介では大抵名前を言うので、名前について思い起こしたことを雑然と記してみます。

 住民票や免許証の氏名を見るとき、どこか実感が持てずにおります。選んだものではない言葉が自分の背中につけられ、それで呼ばれるのは、奇妙な感覚です。完全にランダムに割り振られた記号列でしたらむしろ、実感などという観念を問おうとしなかったかもしれませんが。

 以前は、自分が名付けられた名前は幼名であり、大人になったら新しく名を選べるのではないか、そうであってほしい、とどこかで感じていたかもしれません。

 ではさて、己で選び、名付けることができたとして、けれどそれは果たして己自身だと実感されるのか。たとえば筆名について考えてみると、なんらかの愛着はあるものの、己の全人格が「それ」であるという実感を持っているわけではなく、ある種の距離感があるようにも思います。

 けれど、全人格ではなく、人格の一部ならばそこに投げられるものなのか。経験的に、ハンドルやユーザーネームも含め、己による名付けには基本的にある程度の時間を要し、そこには自分自身のこだわりや、ある種の(自分がこれから振る舞おうとする)振る舞い方の土壌が生まれそうな雰囲気を入れ込むので、人格の一部と結びつくような気もします。けれど、と頭のどこかでまた問います。人格と名前を結びつけたいのか? と。前、ファミレスによく通っていたときは、席を待つ人のリストに都度適当な名前を書き、その適当さにこそ救いのようなものを覚えていたようにも思います。(日記だ、これ、すごく日記だ)適当な文字列から適当な人格ができる可能性に関する救いだったのでしょうか、いや、人格が期待されない場所であり、そして名前がただの一時的な名前、呼ばれる客を区別するためだけの存在である、そんな場所である、といったことを期待するがゆえの救いだったのでしょうか。

 さて、動かしようのない唯一の名前、真名、というような名が存在するような世界観の物語をみると、常々、自分を唯一の名と同一視するというのはどういう感覚なのだろう――と不思議に思っていたような気もします。羨ましさでもあり、不思議さでもあり。いったい、人が唯一の名前に完全に同一化することは、この名こそが真実に自分であると思うことは、可能なのでしょうか。それはうれしいことなのでしょうか。

 
 

 名前の話をしましたが、口調というのも、また別の定まらなさがあるようです。

 ひとりの人間に対してひとつの口調が強制されているわけではない。いつでも選択の余地がある。普段、決まった人と話しているときには同じ口調を使っているけれども、はじめて足を踏み入れる場所であったり、改めて何かを切り出す段であったり、そういうときに、唐突に「どのような口調で話せばいいのだろう」と問いかけられる気がします。そんなことを思い出すと、いつもの人と同じ会話の中であっても、自分の口調がざらざらしたもの、舌よりすこし上で遊離しているようなもののように捉えられるような気もします。どこか服に似ていて、けれどそれよりも覚束ないもの。握りしめてしまうとばらばらとこぼれてしまうような気がするもの。

 そして、口調にこそ、思い出がこもるようにも思っています。近づき、離れていった友人たちを思い出すとき、多くはかれらの短い声、笑い混じりの本当に短いものから、文字に起こせば十文字あまりほどの言葉までを伴っていて、どうやらそうして思い返される声というのがかれらに結びついた鍵のようです。独特の抑揚。音と文の中間の、空気に対する態度のようなもの。切り口のようなもの。

 その色の違いを懐かしく愛おしく思っています。

 選択可能であるがため、もしかしたら一つの口調というのは、ある場所、ある人との間の関わりの場所にのみ生きていて、会話が終わったら姿を消してしまうものかもしれない。二度と現れないものかもしれない。口を開けばあんなに生き生きとしているのに。

 そんな口調が預けられるかのように聞かれて記憶されるというのは、くすぐったくも思えます。

 

 【いただいた問いについて】

  さて最近、自分の脆弱性を突かれるようなーーいわゆるツボに入る作品と出会った経験はありましたか?

 という問いをくださいましたね。

 脆弱性を突かれるような、という形容にどきりとしました。脆弱性という言葉自体がある種の脆弱性を突いたようです。

 いいですよね。ところでシステムの脆弱性は穏便に言うとsexyだと思います。環境省かという話ですが。意図と物理的に積み上がった存在のずれ、というのが、 火を駆り立てるように思います。よくわからない。いや、脆弱性を修正するとかだと本当に秩序の話ですし、ユーザーとしてアップデートするとかだとただただやんなきゃという話なのですが。そして当然(!)頭の中にお問い合わせ対応とかカスタマーサポートとかいうお話が出てくるのですが、ここでは一旦やめておきましょう。消しゴムの跡。

 ええと、脆弱性。ツボ。

 今年の一月に、三年ぶりぐらいにゲーム専用機でゲームを始めてみまして、グノーシアというものをやったのですが、これがきました。好みのど真ん中でした。

 漂流する宇宙船内の乗組員として、乗員たちのなかに紛れた「グノーシア(人狼)」をあぶり出す……のですが、その舞台はループしており、プレイを繰り返す中で乗員たちの情報や秘密を知りつつループの真相に迫っていく、といったゲームです。

 電脳化、動物の知性化、人格移植などが背景にありまして、その中で乗員たちをときに庇い、ときにコールドスリープさせつつ、「知って」いく。

 なお一回性の人狼ではなく、全体がメタ人狼的な側面もあるので、特定の相手が人狼(グノーシア)だと知りつつ庇う、または妖狐(バグ)だと知りつつ生き残らせる、といったプレイもしたのですが、「この相手を今生き残らせる」と計算する側面と、展開していくストーリーの中でキャラクターとしてキャラクターと会話している側面などが混ざりあって、離れているような入っているような、いろいろなものが分かち難い体験をしました。

 なおストーリー全体を通しての相棒は汎性で、(イベントからすると)舞台において汎性は基本的に恋愛しないように人から見なされているようなのですが、そのあたりの精神的なつながりに関わる話がまた印象的でした。

 


 



 

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